福田隨竹庵の歴史

加賀前田藩大聖寺侯の御典医を務めた福田家の8代・鳶斎宗英は、藪内7代・桂陰斎竹翁に師事し、隨竹庵を号して藩の茶頭となりました。
福田隨竹庵の歴史は、それからまもなく250年を迎えようとしています。
隨竹庵3代・休々斎竹翠は藪内家に入り燕庵を継承し、藪内家の次男・節庵は福田家に入り隨竹庵を継承し、以後、隨竹庵は連綿と一子相伝で受け継がれてきました。
時代とともに茶湯の世界も変化していく中、隨竹庵は当初の点前所作を重んじ、現代へと伝えています。
当代・籠庵は、そうした点前を手掛かりに10代の頃から茶湯の本質を追究し、本来の茶湯の姿を現代の生活の中に落とし込むべく、今も日々研究を重ねています。
故くも新しい茶湯の世界を、隨竹庵はこれからも創り続けていきます。

初代 鳶斎宗英

宝暦8(1758)年 - 文政11(1828)年

加賀前田藩大聖寺侯の御典医および茶頭。福田家8代目当主。藪内7代・桂陰斎竹翁に茶湯を師事、隨竹庵を号す。出雲松江藩藩主・松平不昧より好みの道具を拝領するなど、文通も盛んに深く親交していたことが伺える。元々構えていた庵を瓢庵といい、当時の茶室は現存しないが扁額は現在も隨竹庵に所蔵されている。

2代 取此斎遠叟

文化元(1804)年 - 文久元(1861)年

初代・鳶斎の子。隨竹庵を継承し、加賀前田藩大聖寺侯の御典医および茶頭を務めた。茶湯ははじめ父・鳶斎に師事したのち、藪内8代・真々斎竹猗のもと奥義を極めた。その生涯を茶頭としての職務に取り組みながら、のちに藪内家を継承することとなる嫡子・休々斎竹翠を育てた。また、歌道にも優れ、能筆をもって知られた。

3代 休々斎竹翠

天保11(1840)年 - 大正6(1917)年

2代・取此斎の子。父の跡を取り、加賀大聖寺侯の御典医および茶頭を務めた。明治7年、藪内9代・宝林斎竹露の没後、藪内家に迎えられ婿養子となり藪内10代を継承、竹翠紹智を号した。幼くして父・宝林斎を亡くした遺児ら(のちの藪内11代透月斎竹窓(長男)・藪内節庵(次男))を養育し、藪内家を護持した。明治11年には北野大茶湯を再興するなど、晩年に大阪に隠棲するまでその生涯を藪内家に捧げた。休々斎には嫡子がおらず、透月斎に藪内家を継承させたのち福田姓に復し、節庵を養子として隨竹庵の継嗣とした。

4代 藪内節庵

明治元(1868)年 - 昭和15(1940)年

藪内9代・宝林斎竹露の子。休々斎の養育を受け、福田家の養子となり隨竹庵を継承した。国内の近代化が進む中、門下となった野村徳七氏や村山龍平氏をはじめ、三井高棟氏など当時の財界人たちと深く親交、流派の枠を超えた組織「十八会」「篠園会」などを主宰し、当時の経済中心地であった大阪・北浜で盛んに茶会を催すなど、財閥へ茶湯を普及させる第一人者となった。明治維新以降、繰り返される戦争など時代の急変化によって茶道界の存続が危ぶまれる中、節庵のこうした活動によって茶道具の市場も活発となったことから波及し、茶道界全体が活気を取り戻すきっかけとなったのである。国宝「如庵」移築の際の指揮を執るなど、建築や庭園の設計にも精通し、ジョサイア・コンドル設計の綱町三井倶楽部の広大な日本庭園の設計をはじめ、節庵が設計を手掛けた庭園は今も数多く存在している。近代茶道の隆盛において、最も活躍した人物の一人である。

5代 静修斎隨竹

明治32(1899)年 - 昭和43(1968)年

4代・節庵の子。生涯藪内姓を名乗った父・節庵とは対照的に、福田姓および「隨竹」の号を生涯名乗り続けた。昭和33年の大阪市民茶会にて、洋館の会場を活用するため、キリシタン大名を偲ぶ茶会として洋物の骨董品や洋食器を見立てて使用するなどし、当時その斬新な茶会は大きな話題となった。このことがきっかけとなり、以降毎年12月にクリスマス茶会を開催し、長きにわたり隨竹庵の代名詞となる茶会となった。また、作画に優れ、茶道具の鑑定にも精通した。

6代 竹有宗羐

昭和6(1931)年 -

5代・静修斎の子。旧東京教育大学(現筑波大学)卒業後、高知県にて高校教諭を経て帰阪、静修斎に茶湯を師事する。父の没後、隨竹庵を継承し、クリスマス茶会を第60回で閉会するまで開催した。茶道具や菓子の意匠制作に尽力し、50周年および60周年を記念して、父の代からの隨竹庵好みのクリスマス茶道具や菓子を解説した「炉辺異風の楽しみ」を出版。見立てにも優れ、特に輸入品を積極的に茶道に取り入れることを好み、このことから和洋問わず骨董品の鑑定に精通した。竹有には嫡子に男子ができず継承を断念していたが、孫に男子(当代・籠庵)が誕生し、幼年期より熱心に茶湯の教育を施した。平成29年、86歳と高齢となり隠棲、隠居名「宗羐」を号す。

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